分散教会

我々は冗談宗教の分散教会です。真面目にとらないでね。 どこかの文が鮮明に統一されたカルト宗教とは関係ありません!

我々には、「もう少し顔さえよければ…」とか「もう少しお金さえあれば…」とかいうように、「○○さえ✕✕だったら人生うまくいくはず」と思うことがあるかと思います。

こうした思いは一種の向上心でもありますし、良いことであり時には必要不可欠なことでもあるでしょう。


とはいえ、自分が「そうであれば」と思っているのと同じ条件をすでに得ている人でも、自分とはまた違った悩み苦しみを持っていることがしばしばある、というのもまた事実であります。
顔がよければ良いなりにトラブルに巻き込まれることもありますし、お金があればそのために犯罪に巻き込まれることもあります。

自分の人生を改善していくことは必要なことですが、本当の完全さというものは現世にあるものではなく神のもとにあるものです。現世に完全さを求めすぎては、かえってその執着心が自らを苦しめることにもなりましょう。
所詮この世は仮の宿、我らの祖国は天にあり、であります。

それを思えば、現世に執着して無理に合同結婚や統一を進めようとし、政治の世界にまで食い込んでいくようなカルト野郎共の過ちも明らかであります。我々はそれとは違って現世に執着することなく、正道を進んで参りましょう。

というわけで、インストゥルメンタルですが儚き人間のために信仰を求める讃歌をご紹介しておきます。非想天(則)の曲は原曲よりアップテンポでいいよね。原曲も好きだけど。


今日も皆さんの上に神の恵みがありますように。
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今日までローマ教皇が来日していましたね。

日本ではカトリック教徒は比較的少数派ではありますが、より良き分散のためには少数派宗教も尊重するべきであります。ただしカルト、テメーは駄目だ。

ところでローマ教皇のことは、外務省や報道などではかつて「法王」と言うのが一般的でしたが、今回の来日にあわせて「教皇」に呼称が統一されました。ただし、「法王」でも間違いではないとのことです。




従来日本のカトリック教会では「教皇」という語を正式名として使ってきましたが、今回それが追認された形になり、とりあえずよかったですねと言っておきます。

以下の文章はいつ書かれたのか分かりませんが、記憶では多分少なくとも2014年からあります。



(カトリック中央協議会のページより)

〝「新聞を見ると『ローマ法王』と書いてあり、教会の文書には『ローマ教皇』と書いてあります。どちらが正しい表記ですか?」 このような質問が多く寄せられます。簡単に説明します。

教会では「ローマ教皇」を使います。

以前はたしかに、日本のカトリック教会の中でも混用されていました。そこで日本の司教団は、1981年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機会に、「ローマ教皇」に統一することにしました。「教える」という字のほうが、教皇の職務をよく表わすからです。


ところが東京都千代田区三番町にある駐日バチカン大使館は「ローマ法王庁大使館」といいます。なぜでしょうか?

日本とバチカン(ローマ法王庁、つまりローマ教皇庁)が外交関係を樹立した当時の定訳は「法王」だったため、ローマ教皇庁がその名称で日本政府に申請。そのまま「法王庁大使館」になりました。そのため、外務省をはじめ政府は「法王」を公式の呼称として用い、マスコミ各社もこれに従っています。

こうしていまでも「法王」と「教皇」が併用されているのです。〞


ところで、カトリック教会にも、他の宗教がそうであるように色々と後ろ暗い歴史があり、また今でも何かしらスキャンダルがあります。

これをもってカトリック自体を否定する向きもあるかもしれませんが、どんな宗教もその信者は人間である以上、その中には良い人もいれば悪い人もおり、その中から何か悪事をやらかす者が現れ得るものだということは言っておくべきでありましょう。

国や民族についても同じことが言えますが、どんな人間の集団にも悪人は現れ得るものです。しかし、それはその集団自体が悪だということには必ずしもなりません。逆に言えば、良い人がいればその集団が良いということにもなりませんが。

今日も皆さんの上に神の恵みがありますように。

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我々にはつい、自分が他人よりも優れていることを見せつけ、マウントをとってイキりたいと思うことがあるかと思います。

これは社会的生物である人間の宿痾とも言えるかもしれませんが、しかし、人は一般に、自分が他人にされたのと同じようなことを、自分でも他人に対してするものです。

我々が他人に対してマウントをとってイキり散らそうとするなら、他人のほうでもやはり我々のマウントを取ろうとするでしょうし、そうでなくとも反感を覚え、我々のあら探しをするようになるでしょう。
そして皆がこうした態度を取るなら、世の中は殺伐とした生きにくい世の中になっていくでしょう。

しかし、我々が他人を尊重し平等に接するなら、他人のほうでも我々を尊重してくれるでしょう。そして世の中はやさしい世界になり、10年後を安心して見据えられるようにもなるでしょう。常にそうとは限らないけど、ま、一般的にはね?


ところで過去世においては、常々自慢をしたくなるという悪癖を抱えていながら、その増上慢の心を菩提心に変容させて彼岸に至ったと云われる人物がいます。
ネガティブな心の働きをポジティブな働きへと変容させる、これこそ真言乗の実践だと言えましょう。
これが彼の残したと云われる真言です。


我々もこのSUNEO上人に習って、低俗なものを高尚なものへと変容させ、この世をより良きものに変容させて参りましょう。

今日も皆さんの上に神の恵みがありますように。
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